千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう)
大永2年(1522) - 天正19年(1591)
大永2年(1522) 和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)に生まれる。幼名は与四郎。法諱は宗易。居士号は利休。抛筌斎。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹。祖父は、足利将軍家の同朋で千阿弥といい、その名をとり、正親町(おおぎまち)天皇より許されて、千姓を名乗ったのです。北向道陳・武野紹鴎に茶道を習う。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕える。北野大茶会を取り仕切るなど、茶匠として権勢を振るい、秀吉から利休を天下一の茶人と褒め称える。ところが天正19年2月13日、秀吉は利休に堺への退去を命じ、26日には京都に呼び出して切腹を命じる。天正19年2月28日切腹。
辞世の句
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
『南方録』では、新古今集の家隆の歌
「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」
を「わび」の心であるとしている